伊坂幸太郎
『魔王』
を読む。
皆と同化しない男が同化しないように、しない方向を出すんだけど、やっぱり同化してなくなっちゃう。
犬養という政治家。
これが国にまとまりがないので外に敵を作って、怒ることで一つに同化しようとしていると思う。
男はまた「読唇術」が出来るようになる。
これは、男が自分の同化できる他の人を作ることを指すのではないかと思う。

魔王
思うに、いつも読んでいる伊坂作品は、同化できない人物がいて、
出来ないから、外れてて、変わりもので、孤立してて。てな具合。
でもって、人物自体も自分に起こったことは解っていても、自分のやっていることの本質(のようなもの)・・・どこへ向かって結局どういうことなのか・・を知り得ない。
ストーリー自体も、それを語らなく、知ら(せ)ないまま話が進む。
あるのは、人物と人物との間の事象で、語るのも結局人物ではなく、人物像を語る。
思っていることを語っているとしても、それはその人物が他人との関係で導き出したものだと言うだけ。


例えば、韓国ドラマのように、めまいがする、倒れる、顔面蒼白・・・
として、実は重篤な病気だったりするとする。
そうして、友達は大丈夫か?とか、最近なんか変じゃないか?大丈夫か?と訊いて来たりするとする。
そう考えると・・→そういえば→病院へ→やっぱり重い病気だった
とはならないのだ。
めまいがすると当の本人はめまいに気付かず、気付くのはめまいがするときに起こる現象・・例えばその時に見た幻覚を現実だと信じてしまったりする。
また、顔面蒼白も人が気にして直接聞いて来ず、遠まわしに、普段どおりの話に織り交ぜて「変わりはないのか?」と聞いてきても、あいつのこの考えはなんだかこういう風に違うぞ。と気付かない。
と、いう風だ。


ストーリー自体が人物(像)に気付かないので、人物(像)がその意志でとった行動が起こす事態が、大変なことになった時には、非常に重くなるし、読むあたしの驚きも大きい。
なんか透明な箱に入ったものをその向こうから透明な箱に入った何かがみててそれをみて指しているものがある。という関係。
客観的といえば客観的だし。どちらかというと作者嗜好も向いているのかもしれないと思う。


確か作中で、戦争とか暴動とかっていうのは誰かが煽動して起こるってあるし、サッカー選手が殺された事がきっかけで、アメリカを敵にして暴動が起きる。
きっかけは兎も角、みんな煽動されているのではなく、飽くまで自分の意志で、思ったことを正しいと信じてやる。
結果、みんなが気付きも考えもしなかった大きな事に至る。って件があったと思った。
この客観的な関係を考えて読んでいくと、なんだかここのところが非常に重要に思える。
確かにいろんな大きな「動き」って言うものはそうなんだろうと思う。
(と。ここで終わるのは中途半端・・な様なきがしてはいるが。)