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雷桜 (角川文庫)

雷桜 (角川文庫)

何のことはない。一人で強く生きる女性を描いた時代作品。



瀬田村庄屋の娘、遊は初節句の大きな雷が落ちた日突然居なくなった。

父、母、二人の兄、家中、村中のものが心を痛め総出で探したが見つからず15年が過ぎた。

下の兄助次郎は江戸から帰る際、そうして江戸へ行く際遊が居なくなった山で少年の姿をしてぞんざいな言葉遣いの遊と出会い、家へ帰るよう伝え、そうして、遊は家へ帰る。遊は瀬田村のある藩の事情などさまざまな理由でさらわれ山の中で男に育てられる。育ての母親が早くに死んだため、無骨でぞんざいな物言いをし、その様はおとこ姉様、狼女と呼ばれるが、野生さが伝法であり、魅力である女性である。

助次郎は中間という侍ではない立場で御三卿清水家に仕える。あるとき当主清水斉道の夜伽の番をすることに成り、何か話して欲しいといわれ、遊の話をする。斉道は母の名が同じ遊であることもあってか遊の話に熱心に聞き入り、会いたいと口にし、持病の転地療養をする際会いに行くことになり、遊の奔放さに心を癒され惹かれる。遊も斉道に惹かれ、斉道の子を身ごもるが、斉道が紀州徳川家の藩主になる際も側女にはならず、心を通い合わせることが出来る、またそういう存在である、という道を選ぶ。



多くが、遊もしくは斉道という殿様のことについてかかれるのだけど、最初と最後をあわせて考えるにやはり、二人の邂逅について書かれた話ではなく、遊の生き様について書かれた話と見るほうが良いのだと思う。

というふうに本作は遊のことを時には寄り道をし、時には遊を語る方向を変えたりして遊をいろんな角度からみて表現している。

最後は殿様と遊は結ばれないのだけど、そこは悲しみというより、切なさである。そう考えるとやっぱりシンデレラストーリーだと思うし、奔放な遊が、奔放さをとがめられずむしろ「お侠(おきゃん)」であると現されて、普通いろいろなところで現実にぶち当たる挫折といったものもベールにくるまれて強くは書かれない。・・・ので物足りない。ということに私ではなってしまう。