小川洋子 刺繍する少女

刺繍する少女 (角川文庫)帯に有ったのだけど、まずこれはどこが「美しい愛の物語」なんだろうか。
ケーキのかけらはボケたおばを殺そうとする話。
図鑑は不倫している自分を作家である男に寄生する寄生虫だと例える。
森の奥で燃えるものは愛しているという気持ちが相手の同意なくわざわざ棲む世界が違う彼女を引き込む。


でも、まあ、美しい愛の物語・・なんだろうと考えてみることにする。
いやいや、そこから「愛」=人の愛しむ思いというものはとても強く感じられるのだが、美しいってなんだろうとそこでまた、新たな疑問が沸く。
そうして、また考えてみればおそらく、美しさというのは、現実的には理屈が合わない非現実性なんだと思った。
例えば、メルヘンの様なもの、自分で創り上げた妄想、勝手に膨らんだ思い出が、美しいと思えるようなものと同じだろうとあたしは思う。


でもって、表題作刺繍する少女
「少女」なんだが、主人公は青年。
会社勤めをしていたが母親が末期で、一緒にホスピスに入り最期をともに迎えようとしているところに、自分達一家にいろいろな事が起こる前の幸せな時、別荘で隣に住んでいた刺繍をしていた少女が同じホスピスに居ることが判る。
この主人公は母親(ほぼ)そっちのけでこの女性に思いを寄せて求める。
そうして2人が会わなくなってからの話や一緒に過ごしたときの話ばかりを2人でする。
母親が臨終を迎えた時もこの青年はこの女性を探すのだが、この女性は居なくなってしまう。


死んだ時と時を同じくしていなくなるこの女性ってこの青年にとってはなんだったんだろう。ってずっと考えてて・・
だいたい、時間というものを中心に考えていくと都合いい時に出てきて、終わったらいなくなっちゃうというのは、ありえないし。
自分としてこれは、現実が時間と共に在るとして、この少女というか女性の存在は時間ではないものに居ると考えた方がしっくりきた。
例えば、辛いことがあると、〜だったら良かったのに。とか〜の時は良かったな。とか現実とは別なことを考えてその辛さを和らげようとすることがあるが、これはそれに近い。
つまり癒し。というか辛さを緩和するような存在なんだと思う。
僕と母の関係と、僕と彼女の関係は作中で常に交差し合っていて、最初は「僕のこと覚えていませんか」と無理やり時間に直したりしている。
でも、段々彼女に惹かれてゆくにつれ、こう、現実と現実ではないこととの区別がはっきりしなくなって行って、母の臨終だというのに彼女を求める僕になっていて完全にその時の辛さからは離脱している。


作中彼女が最後のほうで「・・ここは通り道なのよ。あちらへ行く人とこちらへ戻ってくる人の」と言っているが、作品全体がなんだか現実とそうではないものを交互のように見せていて読んでいくうちによくわかるよと思いながら、現実離れさせられて行き、癒されていく・・みたいな感じになってしまう。
小川さんもこの前の瀬尾さんも先月の角田さんも人気の作家なんだけど、
それは人が人に感じる、細かいそれでいて理屈では考えられない、いわゆる「揺れ(と書いた方がいい時もある複雑且つ不可解な)る想い」を表現するのがとても上手なんだと思う。
表現しつつ、グロくもなく、直接的でもなく。かといって訳がわからなくもない。
だから読む人がコレとってもわかるよ。と自分をそこに見つけ出しやすいし、そしてそれを自分のものとしやすい


(偶然世の人々と同じ日に休みだったのに、体調不良で)
出かけられないので、本を読む。